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迎える別れの、未来をたぐり寄せて




シャワーを浴びた。真っ暗な中、温かい雫が肌を滑っていく。
アイツが帰って来る前に、目の赤みが消えたら良いな。
そこまで思って、ふ、と歪んだ笑みが浮かんだ。


「・・・帰ってくる前に、だって」


とんだお笑いぐさだ。


なんで、アイツがここに帰ってくる前提で私は言っている?
アイツが帰る場所を勝手に此処だと思い込んで。ほんとに、バカじゃないの。
アイツが居た所は違う世界で。もしかしたら天国と呼ぶかもしれないそんな場所なんだろう。
だからアイツが帰るべき場所は此処じゃない。





―――帰っておいでと言ってよいのは、



この世界の私でなくて



――・・・私の知らない世界の私の知らない人だけ
















シャワーの音と、雨音が交じり合って、髪を通って落ちていく雫を
眼で追いながら小さく諦めるような苦笑いを零した。



夢だなんだと言いながらも、やっぱりいつのまにか「内」にいれてしまってたんだね。

最初なんて互いに好き勝手な方をむいてたけどさ、一緒にいればいるほど少しずつ
視界に蜂蜜色の金がゆれて、白さを彩る桃色が見えて、生意気そうな翠色の瞳が映って。

太陽みたいに笑ったり、ガキ大将みたいに口を歪めたり、
不機嫌そうに眉をはねさせたり、ゆるりとだらしなく微笑んだり。


思いつくだけの記憶を掘りかえして、気がついたことあるんだ。




――――ねえ。私さ、出逢ったその瞬間からアンタに瞳を奪われてたみたい



――でも、そろそろ帰さなきゃ。





私が、私自身で気がつかないくらいに瞳を奪われてしまうアンタ。
平和で、なんてことない平和な毎日。
どうしようもなく臆病で強がりな私に気がついていたくせに、
そんなのをあっさりと包み込んでしまうくらい優しい世界をくれたアンタ。


そんなアンタには、そんなアンタの世界には、きっとアンタを待ってる人がいるんでしょ。
信じれないくらいたくさんの、私の知らない人たちがアンタを待っているんでしょう。






唇を流れていた雫が口をあけると少しだけ中を潤した。




「もし、」


荒唐無稽だと笑い飛ばしてしまうくらい、ありえない話しだろうけど
もしも、私がアンタをこの世界に縛り付けている枷になっているのなら、







尚更のこと、アンタは帰らなきゃならない。



―――・・・私の知らない世界。アンタを待っている、その世界に。














「さようなら、だ。」



けじめをつけよう。優しい世界にありがとうって満足して笑って言えるように。
どろどろした気持ちはシャワーの雫と一緒に排水溝にぐるぐると呑み込まれてしまえ。
だからもう泣かないでよ、私。今泣いているので最後にしよう。
・・・ねえ、だからさ、少しでも早く止まって・・・。
























シャワーを浴びて幾分すっきりしてから
冷蔵庫から出したばかりのアイスにかぶりついた、歯に凍みた。
ぷはあぁああとお疲れなサラリーマンがビールを飲んだ後に発するような
溜息を吐いて砕いたアイスの欠片を呑み込んだ。



「天使っていうのは、どうしてどいつもこいつも性格悪いんだろう・・・?」



俺様天使しかり、さっきのクール系銀髪青目しかり。
なんなのあの長い髪。モップか。

心の中で罵倒して一瞬優越感を得たが、心に留まることなく霧散した。
今何時かなー、と落ちたブレーカーをあげて供給された電気を
フル活用している小さなランプの下にある時計を薄暗い中、
眼を細めて見ると、殆ど深夜に近い時間帯だった。


雨は最早止まっているが、俺様天使は清秦おじいちゃんの所で一夜を過ごすのだろう。
けじめをつけたばかりの私にとって、それはそれで少しほっともしているけど、
その反面、どこか不安がまたどろりと首を擡げそうになった。
けど、無理矢理にそれを私の中の汚い渦に押し込める。不安に翻弄されたら、けじめの意味がない。



――・・・・さようならの時、ありがとうって笑って送り出すんだ。
アイツがなんの『未練もなく』笑顔で帰れるように。



「大丈夫、できる。今まで通り、すれば良い。」



だから私の気持ちには蓋をしよう。気がついてないふりをしよう。
うん、と決意を新たにした。


けれども襖から布団を出すの億劫で座布団を枕代わりに横になっていたら
からからと、玄関の戸が開く音がした。


(切り替えよう、切り替えよう、切り替えろ・・・。・・・切り替えた。)


板を蹴る音がだんだん近づいてきて、銀色の光を纏った私の優しい世界が現れた。
お帰り、って言いかけて私は唇を歪めて誤魔化すように眼を閉じた。



「・・・・・寝てんのか?」



俺様天使の方に背を向けながら横になりながら
胸の中をせめぎ合う色んな想いや思考を刈り取るのに必死で動かなかったら、ふわりと体が包まれた。
なんだろうと、眼を開いて体を起こそうとしようとした瞬間、聞こえた声に体を押しとどめた。



「風邪ひくだろうが。ったく。」



・・・今までずっと聞いてた、この声。
ふるりと、身体が震えて、瞳がじんわりと熱くなった。
心底呆れたような声音の中、気遣うような思いが滲み出ている。
口先は、なじっているけど、それは照れ隠しでやってることはとても優しいんだ。







一日中暗かった今日。電気の流れが消えた今日。
真っ暗闇の中、唯一その闇を照らすことができる光りを生み出す彼が
起こさないようにと小さな声で狸寝入りしている私に囁いた。


「さっさと帰ってくりゃ良かったな。一人にして悪かった。」




―――ああ



どうしようもなくなって、
堪えきれなかった涙が、一筋だけ頬を伝った。


(・・・もう泣かないって決めたのに。)
(―――お願いだから、これ以上・・・。)