29

当事者のいない世界が動く


陽が沈む前に戻れた私は、うさぎのキーホールダーのついた鍵で
古びた引き戸を開けると、から、からからと音を立ててひらいた。

サンダルをぽいっと脱ぎ捨て一段あがり
そのまま厨、つまりは台所の冷蔵庫へ直行し
清秦おじいちゃんから貰った新鮮な野菜を仕舞い込んだ。


後ろから、左肩からぬっと飛び出した腕に若干吃驚して
視線で辿ると、のんびりとやってきた俺様天使がちょうど
麦茶を取り出していた所だった。



「飲んだらしまっておいてね。あ、あと今から夜ご飯作るから
ちょっとテレビでも見てて待ってて。」


「いや、人間見てた方がおもしれえからここにいる。」


「はあ?」



私は心底呆れたような声を出したが、すぐさま肩を竦めて
邪魔になんない所にいて。と言ってフライパンを取り出した。











大して豪勢でもない夜ご飯をつつきおえてから俺様天使を
タオルとともに浴室へ押し込め私は髪乾かさないと傷むなあ・・・。
なんてどうでも良いことを思いつつ縁側に座りながらアイスを食べていた。

ちなみにアイスの味はミルク味だ。
オーソドックスなのは外れがないから冒険せずに済む。

半乾きの髪を撫でつけていく夜風に眼を細め空を眺めて
思わずそこで私は細めた眼を大きく見開いた。

甘い甘い砂糖の結晶のような色鮮やかな星が万華鏡を
覗き込んだように空見渡す限り一面に散らばって自分の命を燃やし
煌々と輝いており、その光はいつもより存在を増している。

なぜだろうと首を傾げそうになったが、すぐに気がついた。





――そっか、今日は新月なんだ。

「・・・・・・・・。」



新月、月が消える、隠れる月。
新しい月が生まれる日。

ふっと脳裏に、満ちた月に照らされた金色が過ぎった。
そういえば、そうだっけ。アイツが居候になったあの日は満月だった。



――――もし、もしも満月の日が次に来たそのとき・・・、

「・・・あれ?」



私は思わずきょろきょろと周囲を見渡した。

さっき、ふいに「何か」の疑問がわき上がったが、
それを掴み取る前に「何か」が深い所へと落ちていってしまったのだ。

一瞬の疑問が、呆気なくと自分の両手を零れ落ちたことに
己のことであるが何て滑稽なんだろうと思わず笑って空を仰いでいると
濡れた髪をがしがしとタオルで拭きながら俺様天使が廊下の角から現れた。



「お、アイスじゃねえか。」


「ん。欲しかったら冷蔵庫ね。」



あァ?人間が取りに行けよ。なんてニヤリと笑いつつ
俺様天使は縁側まできて隣に胡座をかいて座った。

だがニヤリとしてた口角を落とし、小さく眉に皺を寄せたため、
なんだと小首を傾げていたら白い腕がこちらに伸ばされて
反射的に思わずその手を避けて退いた。

恐る恐る見上げると俺様天使は子どものようにムっとしていた表情を崩し
やれやれこれだから人間は、とでも言うように肩を大きく竦め、
親指と中指を使って器用にパチンと音をたてさせた。



「なにしたの?」


「髪乾かしただけだ。」


「ああ、ほんとだ。」



先ほどまで、水を含んでぺったりとしていた金髪が
そういえば綿菓子みたいにふんわりとしている。

ドライヤーも使わないし、早いしある意味羨ましい。
ちょっとだけ羨望の色を含んだ視線に気がついた俺様天使は、喉で笑ってから
一度さっきの私みたいに夜空へと視線を向け、横目でこちらを見て
もう一度白い手を伸ばしてきた。


今度は咄嗟に頭を引っ込めたりしないでいると、白い手はぽんぽんと頭を撫でた。
さらりと肩口から私の髪が零れて視界を遮ったが、
こちらが何かをするまえに俺様天使の長い綺麗な指が
その髪を掬い上げてそっと耳へとかけてきた。


お風呂上がりだからだろうか、頬を滑った温かい指先に思わず
瞳を細めると、俺様天使は髪を掬い上げていた方の手で私の顎を持ち上げた。

つられるように視線をあげると、
白い肌に溶け込むようにピンク色が頬へ広がっていた。
熱に潤んだような深い深い翠色の双眼に、身体の真ん中をきゅ、と囚われ
見えもしない海で溺れているような息苦しさに襲われた。


――くらくらする。



空間を埋めるように、差し迫る翠色にふっと瞳を伏せた。







「よし、髪乾いてんな。」


「は?」



伏せた瞳を呆然とあげると私の髪をさらさらと梳いて遊んでいる俺様天使がいた。
え、あれ、え?ちょ。え。え、え!!え。
ぽかんと開いていた口を慌てて閉じつつも、ぎょっとして眼を見開くと
流石俺様。一流だな。とか呟きを落として、くるりと背を向けて
廓の方に足先を向けて角を曲がっていってしまった。

ぽつねんと一人残された縁側。


「・・・あれ、勘違い?」



零れ落ちた声には呆気にとられたような色もあったが
ほんの一欠片だけ落胆したような色も見て取れた。

(キスされると、思ってた!)

そんなことを思い込んでいた私は、恥ずかしさに真っ赤になってしまった。
そしてこのあと、全身を火照らせた熱を逃そうと奮闘するのだが
中々冷めることはなく、アイスを頬張りながら戻ってきた俺様天使に
ニヤニヤと笑われることとなったのだ。
























――太陽が燦々と照りつける朝。



「あ、ねこだ。」



洗濯カゴを片手に物干竿のある庭におりると、緩んだことによってできた
垣根の隙間から黒猫が顔を覗かせていた。


前に見た猫と一緒かな?だなんて思いながらゆっくりと
驚かせないようにしゃがみ込むと、一瞬黒猫は、身体を縮め
警戒したようだったがこちらがしゃがみ込んだ以降
動きを見せなかったからか、「にゃあ」と小さく鳴いてすり寄ってきた。
少し高鳴る胸を抑えて、もふもふしてそうな背中に手を伸ばした。

柔らかな毛からほんのりと温もりが伝わる。
ふふ、と思わず笑みが浮かんだ。



「人に慣れてるんだね。」


「にゃあ」


「可愛いね。」


「にゃあ」


「どこからきたの?」


「なう?」



小首を傾げた黒猫に指先を近づけると、
すんすんと小さな鼻を動かしてから指を顔に擦り寄らせた。
そんな様子にさらに頬をだらしなく緩ませて首元を優しく撫で上げると、
私は名残おさげに立ち上がった。



「洗濯物ほさなきゃ。」



にこりと黒猫に笑顔を向けてから、湿り気を帯びた洗濯物に手をかける。
だが、足元に柔らかい感覚が。



「どうしたの?」


「にゃう」



視線を下ろすと尻尾を柔らかくふりながら甘えた声で足元に擦り寄る黒猫がいる。
可愛い猫ちゃんに擦り寄られて嬉しくない奴がいるだろうか、いやいない。
いないと言ったらいない。いるなどという意見は却下だ。



一歩歩く度に、追い駆けてくる黒猫を視界にいれつつ
最後の靴下を洗濯バサミでぶらさげた。


ぎらぎらと照りつける日差しから逃れるように籠を持ち上げ
一度黒猫の頭を撫でてから縁側へと退却する。



「ちょっと待っててね。」



黒猫もついてくるのではないかと危惧して言い聞かすように言葉を向けたあと
踵を返して古屋へとあがるが、黒猫は内と外を区切る石段の横で
大人しく毛繕いを始めた。


そんな姿に感動を覚えながらもボソッとこぼす。



「俺様天使に見習って貰いたい・・・。」


誰にも届かないだろうくらい小さな声に、
黒猫はぴくりと耳を立たせ、ゆらりと尻尾を揺らした。











「あれ、いなくなっちゃった?」




きょろきょろと黒猫を探し彷徨っていた視線を落とすと 水が入った浅い皿が眼に入る。
手の中に歪んだ自分が小さく苦笑している。


これ意味なくなっちゃったなあ・・・。

ま、いいや冷たいお茶飲もうっと。

そう思って私は踵を返した。

朝から変わらずに空から燦々と照りつける太陽に、
早朝に撒いた打ち水も太刀打ちできなかったのか
気がついたときにはからりと土が乾いていた。
とまあ、打ち水って夕方するんだろうけど。


汗ばむ陽気に熱を逃がそうと服をぱたぱたとさせ、
麦茶を注いでおいた冷たいグラスを手に取ると、
からんと氷が音をたてて回った。

水滴がぼたぼたと垂れていくが、
普段眉を顰めるくらいで終わっていたそれも
今はただ夏の暑さを実感させる不愉快なものと成りはてていた。
庭の茶色い垣を覆うように巻き付いた紫陽花が空へ向けてキラキラと煌めく。



「で、なんでアンタはそんなに涼しそうな顔してんの?」


「こんくらいでへばってやがるとか、だらしねえなあ。」


「あーつーい・・・。」


「うっせえよ。」



私が寝転がると、ふいに握っていた冷たいグラスが手からすっぽ抜けた。
その先を見ると俺様天使がグラスに口をつけて飲んでいる。

白い喉仏が上下へ動く様子が妙に艶やかで思わず見惚れてしまいそうになり
慌ててそっぽを向いたが、見抜かれたのか押し殺したような笑い声が聞こえた。
よっと。と、隣に俺様天使が座った気配がした。



「・・・平和だなァ。」



ぽつりと落とされた言葉を代弁するように
穏やかな風が庭へ投げ出した足を擽って吹き抜けていく。
独り言のようなそれに返事をしなかったが、
俺様天使は気に留めずに同じように寝転がった。

ふいに長い沈黙がおりたが居心地の悪い沈黙でない。
不法侵入者で変態で破廉恥な俺様の前なのに気恥ずかしさや不思議と穏やかさに包まれる。
夏の始まり、つまりアイツと出会った月夜の晩がぼんやりと瞼の裏に広がった。


(・・・普通だったら、変質者扱いして即刻警察に通報するのにな。)


みーんみーんと蝉の声と、風と遊び森のざわめきに
うっすらと開けていた瞳をゆっくりと閉じると、
俺様天使の手が柔らかく頭を撫で髪を梳いていった。
一回、二回、三かい、よんかい。


母親が我が子を慈しむような優しい繰り返されるそれに
最後の力を抜いてうっすらと開けていた眼を閉じると、
ふわりと意識が身体から抜けそうな感覚に襲われて
・・・覚えていたのはそこまでだった。








深い息づかいなったのに気がついた金の髪の持ち主は
撫でていた手を止めて顔を覗き込み、その寝顔に思わず呆れたような表情を浮かべた。

仕方ねえなァ、とゆっくりと髪から手をぬき、
顔の横で小さく振ると、一瞬だけ指先が光を零し風を纏う。


纏った風が微笑むように涼しさを運び、寝顔に刻まれていた眉皺が解かれ、
安心しきった子どものような表情が浮かぶ。
寝てる時は素直なことだな。と噴き出しそうになったが
彼は翠色の瞳をゆるりと細めるだけにとどめておいた。


ちゅん、と小さなスズメが木の枝から肩に留まってくる。
宿主と同じように軽く寝顔を覗き込んだかと思うと羽を震わせ擦り寄ってきた。
温かい柔らかさに頬がくすぐられる。





この世界に来る前の自分だったら、
こんな、ぬるま湯に浸かったような毎日なんて
つまらないものだと、目も向けなかっただろうけれど。

この世界にも森があって、川があって、
そしてこの世界には人間がいて、清秦のジジイと安恒もいて。

そう切り出して穏やかに思惟を始めた。



けれどふっと思考を止めて、見上げた夏空の眩しさを受け止めるように
太陽に手を翳すと、彼は翳した指の隙間から、

―――優しい世界を見つけて











「――・・・満更でもねえな。」


ゆるりと、頬をゆるませた。















それから少し遡る、とある場所。
















―――――白い空間。

12個の椅子が円を描くように高い所に備え付けられている。
一番高く備えられている椅子を軸として、
左右に広がる椅子が一段ずつ低くなっていく。
吹き抜けの天井から降り注ぐ光が、円の中心で頭を垂れていた者を照らした。

椅子に座っている者達は無言を持ってその者に発言を許すと
膝を屈し頭を垂れていた者が、静かに口を開いた。





「行方知らずだった『ティタハの御子』を見つけました。」