紅い直衣の男は、少しの沈黙のあと
愛しさを孕んだように「安恒(やすつね)」と名乗った。
俺様天使に聞いた話だと、
境内にぼんやりと立っていた安恒さんと
瞳があった瞬間から、ずっと視線を感じていたらしい。
そしてそれに我慢が出来ずに話しかけたのが
先ほどの行動に繋がったようである。
というか、安恒って名乗ってんだから
烏帽子とか呼ばずに名前で呼んでやれよ、と
俺様天使を脳内で罵倒する。いや、脳外でも罵倒したが。
今まで見えなかった安恒さんは、
想像していた落ち武者とかと違って
綺麗な紅色の直衣をその華奢な身に纏い、
平安貴族を象徴するかのような烏帽子をかぶっていた。
ちなみに血などで汚れてはおらず、一見して清楚な雰囲気を持っている。
さっきはグロイ幽霊とか変な想像してすみません、と
心の中で謝ったのは道理だと思う。
幽霊のおどろおどろしいイメージが、
柔らかく桜のように儚いイメージへと塗り替えられた。
しばらく人目を気にして移動した所で安恒と三人で話していると、
保たれていた一種の緊張感があっさりと消えた。
ふと、腕につけた時計を見ると、二十時を短針が指そうとしている。
あ、と思わず声を漏らすと安恒さんと話していた俺様天使が
後ろから覗き込んできて思わず身を固く竦めた。
「どうした?」
「あ、え、っと、花火がそろそろ。」
『ああ、刻限が近づいておるのか。』
「?」
『空に咲く花のことであろう。』
思わずまごついた私を気遣うように安恒さんが
小首を傾げた俺様天使に、返答してくれた。
『あちらに参るが良い。よく見えると聞いておる。』
「え、でもあっちって言われても・・・。」
扇子を持つ手が舞うように静かに遠くを指し示している。
方向だけ指さされても具体的な位置が分からないし、
何を唐突に、と困ったように眉根をさげると、
安恒は口元を緩め、こちらへと告げたため、
二人して砂利道を踏みしめながら大人しく着いていくと、
境内の奥へと辿り着いた。
私と俺様天使は、普段見ない物珍しい景色に、きょろきょろと
周囲を眺めつつ歩いていたが、ふと立ち止まり二人して振り返った。
視界に入っていた紅色がいつのまにか消えていたからである。
視線の先には、砂利と土の境目で微動だにせず
こちらを見ている安恒がいた。
足を止めている様子に、花火がよく見える場所はここなのだろうかと
思案したがあっさりと安恒本人によって否定された。
『此処を暫く道形に進むと小さき祠に辿り着くだろう。
其処から見るとよい。』
「烏帽子は来ねえのか?」
問おうと思ったことを先に越され、
私は同意するように頷きつつ安恒さんを見る。
安恒さんがこないとか何故・・・。
実は悪霊で陥れようとしているとかそんなことないよね?
いや、でもこんな清楚で儚さそうな見た目の人が
そんなこと考えないでしょ!
自分は見た目に騙されやすい性分だったか、いやそんなことはない。
と自問自答していると安恒は、困ったように綺麗に苦笑いを零した。
苦笑いを向けられた先を何気なく見ると、
草むらから縄で縛られた薄汚れた石が顔を出している。
『ああ、我は止しておく。』
「あァ?烏帽子も人間と同じで意味わかんねえ奴だな。
ここまで来たんなら一緒に行けばいいじゃねえか。俺様が許す。」
花火を三人で見るのは俺様天使の中ではもう決定事項だったようである。
彼からあふれる少し不機嫌な雰囲気と、形の良い眉が
歪められ怪訝の色を顔一面に表してるのを見れば一目瞭然だろう。
そして、やはり平安の時代から飛び出して来ているような安恒も
日本人独特の空気を読むスキルを使い、俺様天使が纏う気分を察した。
「一番意味わかんないのはアンタでしょ?
まったく相変わらず偉そうに。
コイツのことは放っておいて、安恒さんも一緒に花火見ませんか?」
「俺様が偉いのは当たり前だ。」
とりあえず俺様天使の発言をさらりと流し
私も俺様天使の意見を擁護するように言葉を続けたが、
安恒さんは少し嬉しそうに目を細めたが静かに首をふって口を開いた。
『いや、此処より先は人が子の現世。我には常世で身に余る。』
「んなこといってねえで、――。」
『天ヶ使いの者。』
優しく、しかし反論を許さないような声音。
断ったのも関わらず、尚、食い下がろうとする俺様天使の台詞を遮り
静かに俺様天使を諫めるように呼ぶと、
俺様天使はもう一度口を開きかけたが押し黙った。
悔さを滲ませたかのように、唇がきつく噛まれる。
その横顔を見上げつつ、私は俺様天使の安恒さんに対する
盛大な我が儘に何かを抱いた。ちくり、と胸のあたりが痛い。
とく、とく、ちくり、とく、とく、ちくり、ちくり、とく。
なぜか不快な汗が首を伝った。
そしてふと安恒と瞳が交錯し、肩を思わず揺らすと
水を打ったような瞳が逸らされた。
『今宵の蕾は一瞬で花開き散るらしい。さあ、急ぐのだ。』
そう言って安恒は砂利と土の境界線で、微笑みを向ける。
儚いそれは、母が幼子へ向けるがごとく優しく柔らかく、
けれど不思議と寂寥に包まれ突き放されたような気持ちに襲われるものだった。
真正面からそれを見た俺様天使は一度喉を震わせたが、
振り切るように安恒に背を向け、傍にいた彼女の手を掴んで
砂利の向こうへと足を踏み出した。
無理矢理ひっぱれた身体の体制を保ちつつ、振り返ると
砂利の向こう側で、安恒さんがひっそりと静かに佇み寂しそうに笑った。
――ああ、この手を離しちゃいけないと漠然と思った。
―
―――・・・
――――――・・・・・・。
苔むした祠のかたわらから覗いた夜空に
咲く花の光の粒に照らされて世界は陰影を作る。
息をのむほど美しく咲き誇る光に呼応するように、
繋いだ手が信じられないほど強く握りしめられた。
―――ああ、ほらまた
ぱああんと、空の蕾が花開いて散った。
(かける言葉が見つからないから、ただ静かにこの痛みを受け入れよう。)