「まさか栄太郎も来てくれるとは思いませんでしたよ。」
「・・・・・・そうか?」
「ええ。」
「・・・・・・そうか。」
玲は、庭の隅っこで地面に思うがままに
木の棒で書いていた手が止まってしまった。
後ろの方から何者かたちの会話が聞こえてきたからだ。
ひくりと肩を一瞬震わせてから、氷のように固まる。
「ああ、ここに居ましたか。こんにちは、玲。」
玲は頭上から聞こえた想像以上に優しい声音に
恐る恐る振り返り、顔をあげた。
太陽の光を背後にして、神々しいまでに輝いて見えた
二人の姿に玲は大きく瞠目した。
そんな玲の様子に晋作は一度小さく苦笑いを零すと、
玲に合わせるようにしゃがみ込み、柔らかく微笑む。
「一緒に、僕たちと遊んでくれませんか?」
そして、玲は晋作の誘いに、おどおどしながらも肯定の意を返した。
空が茜色に染まり始めた頃、アウラは拠点としている
長屋の一室に足早に戻っていた。
引き戸に指を這わせ「ただいま」と短く声を出す。
玄関と部屋の境界線のような段差に腰をかけ、
下駄を脱ごうとしたが、堂々とそこに白い紙を見つけ、
少しずれてから下駄を脱ぎ、部屋へと上がった。
笹の葉ではないが、何らかの種類の葉、柏だろうか、の中に
玲へのお土産にと包んでもらった団子を
丸い木製の机に置いてから白い紙を開いた。
すると、そこには見慣れたローマ字で六時には帰ると記されていた。
『干支で何て言うんだったかねぇ』
思わず英語で呟いたアウラは口を慌てて閉じた。
どうやら部屋に帰って少し気が緩んでいるらしい。
此処の所、市場へ繰り出すと監視されているような視線を感じているのだ。
何が狙いか分からぬうちは、外国人を侮蔑する呼び方、
つまりは夷狄なのだが、を嫌がおうにも隠し通さねば
自由に動けない上、長崎に強制送還、さらに斬り捨て御免の
状況に陥る可能性もなきにしもあらずである。
顔に触れると、あるはずの暖かさはなく、
ゴムのような感触と冷たさを脳に伝えてくる。
作られた顔を触りながらアウラは偽りの顔のみを持つイョへと思いを馳せた。
指をこめかみへと這わせ、ぐりぐりと指圧しながら眉を寄せる。
視線を撒かねばならないのが無意識下で相当参っているのだろうか。
ふっと立ち上がり、マッチの火で白い紙を文字通り
消し炭にしてからアウラは溜め息を一つ、ついた。
障子越しに部屋を照らしていた光が、色を喪うように
身を退いってから大分時間がたっている。
それは鍛え上げた体内時計と時を告げる鐘の音で証明されている。
余りにも、遅くはないだろうか?そう思って五回目、
焦れたようにアウラは立ち上がった。
別にアウラは玲の身をそれほどまでには心配してはいなかった。
ここは彼女のテリトリーであるからだ。
加えて、彼女はそこら辺の暴漢よりもよっぽど腕がたつ。
だが、しかし。
「・・・お腹、すきました。」
人間は誰しも、お腹の虫には勝てないのだ。
取りあえず、ガマ口財布ではなく道中財布を手にとり、
トランプを袖下に確認してから外へと飛び出した。
玲は、自分のペースで道を歩いていた。
先ほど聞こえた時を告げる鐘は申の刻、
7つ半つまりは17時を示していた。
このまま行けば、18時には長屋に着ける。
さて、今日の夜は一体何を作ろうかなあ・・・。
歩きながらそんなことを思っていると、
子どもをつれた親子も晩ご飯の話しをしており、
玲は思わずふっと頬を緩ませた。
道を進んでいくに連れて、人混みが少なくなってきている中、
ちりちりと首もとが焼けたように痛みを発する。
一度、それとなく足を止めてみて振り返ったが、
普段と変わらない様態を町は示していた。
小さく足下に視線を降ろしてみると、赤い下駄緒がほつれている。
これくらいならいける、かな?
すっと顔をあげ、小袖の中のものを確認してから
意を決したように顔をあげた。
暗い角を曲がった瞬間、片足を軸にして振り返った一瞬のうちに、
裾に仕込んでおいた小柄を左手に構え、振り落とされたものを受け止めた。
玲の視界が黒で埋め尽くされる。
「何の用ですかッ、こんな物騒なことをして!」
鞘に収まったままの刀との境目がぎちりと唸り声をあげる。
予想以上に重い残戟に受け止めている黄色よりも幾ばくか白い腕が震え始めた為に
重圧から逃れるように小柄を斜めにずらし、刀を滑らせた。
身を引こうと足を動かすが、小袖がまとわりつき予想以上に
距離を取ることができず、意識がそちらに向いた瞬間に、
大きく力強い手に左手を掴まれハッと顔をあげた。
瞳孔が一瞬だけ収縮し、瞠目する。
「――・・・・っ。」
小柄が玲の手の中から零れ落ち、カランと無感動な音が響いた。
陽が沈み、薄暗い中、アウラは提灯ないしは行灯がぶら下げられた
屋台で蕎麦を啜っていた。
ふらふらと、道を歩いていたら、長屋からそう遠くない所に
立ち食い蕎麦屋を運良く見つけたのだ。
音をたてない食べ方は西洋のマナーであるが、
どうやらここでは音をたてて食べるのか粋らしい。
「どうだい?」
「ん、美味しいですよー。」
「はは!そうかいそうかい。」
「いつもここにいるんですか?」
「今日は偶々だな。いつもはもう少し向こう行った所でやってるさ。」
「―――・・・・うあぁあああああ!!」
アウラは思わず肩を跳ねさせた。
店主の言葉に、そうなんですか?と答えようと口を開いた一瞬に、
静けさを切り裂くようなという叫び声が響いたのだ。
同じく肩を跳ねさせた店主とともに、息を止め、
何らかの事態の変化を待ったが、左の暗闇から聞こえた叫び声は、
先ほどの一瞬から声だけでなく、何の物音もしてこない。
さらに様子を伺おうと、凝らした眼も何も捉えることはなかった。
「い、いったい何が・・・?」
「壬生の狼が出たに決まっている・・・!」
「壬生の狼・・・?」
「壬生狼のことだ!壬生にいる!」
「みぶろ・・・壬生狼ですか・・・。」
「京の治安維持かなんだか知らねえが、ただの腐った人斬り集団だ。
ったく、長州も可哀想だ。夷狄と戦ったのに、
それに目をつけられて幕府にまた攻撃されている。
大樹公も一体何を考えているのやら。
長州の方が国を愁えているようでならねえ!」
ひっそりと告げるように囁いた店主にアウラは耳を傾け、
残った蕎麦を啜り直した。肝が据わってるねえ、などと囃し立ててくるが
アウラには関係ない。美味しいのが悪いんです、と言うと
嬉しそうに店主は頬を緩め、裾をまくった。