いつものように、吉田松陰先生の元へと歩いて行くと、
あまりここ周辺では見ることが珍しい小さな少女が、
瓦葺きの一家の、引き戸の前で立ち往生を繰り返していた。
恐る恐ると顔を上げ、「松下村塾」と黒い色で木札にそう書かれているのを
確認する動作を幾度かしていた。
俺は、不思議に思いながらも近づいていくが、
少女は全く気がつく素振りを見せなかった。
ぎゅ、と裾を握り直し、どきどきする胸に一度手をあててから
意を決したようにキッと引き戸を睨み付け、手を少女が伸ばした時に
タイミングがあってしまい言葉が音に出た。
「何の用だ?」
突然聞こえた俺の低い声に、ぴくりと伸ばしていた手を
引っ込めると、少女は勢いよく振り返った。
ああ、ある意味、この少女の決意を無駄にさせてしまったな。
などと、脳裏に一瞬過ぎらせた。
少女の眼に飛び込んできたのは、自分の目線と同じ高さにあった
腰にさされている刀であった。
ゆるりと少女が視線をあげると、頭上で一つに括られている髪が
肩を水のように掠めていった。
「用事か?」
俺を見上げ瞠目したまま、何も発さず固まってしまった少女に
少なからず俺はどうすれば良いか分からなくなった。
松陰先生に常日頃色々な為になることを学んでいるが、
このような少女の扱いは学んでこなかった。
・・・どうするべきか。
ふいに青年は何か考え込んだ顔を見せると
少女に目線を合わせるように腰を屈めた。
びくりと、青年が動いたことにより肩を跳ねさせた少女に
青年は小さく口元に困ったような笑顔を浮かべた。
だが、聞き慣れた親友、いや親友などではない。
しかし仲間という二文字では言い切れない何かで繋がっている者の
足音に気がつき、青年は少女から視線を外しそちらへと向ける。
その者は肩に風呂敷で出来た袋を引っ掛けながら、こちらを凝視し、
ふるりと身体を振るわせて、口を開いた。
「・・・栄太郎、幼女は拐かすものじゃないですよ。」
「誤解だ晋作。」
栄太郎、と呼ばれた青年は真顔で、晋作と呼ばれた青年に対して告げると、
晋作はスッした切れ長の綺麗な瞳を瞬かせから、小さく笑い、少女へと視線を向けた。
「どうせ栄太郎のことですから、言葉少なに何か言ったんでしょう?
僕は高杉晋作 と言います。
それでこちらの無愛想なのは吉田栄太郎です。
ええと、貴方のお名前をお伺いしても良いでしょうか?」
晋作は柔らかい笑みを浮かべながら少女と視線を合わせると
少女は一瞬晋作の瞳を見てから、俯いた。
「・・・―れ、い、です。」
おどおどと紡がれた言葉に俺と晋作はふっと頬を緩ませた。
「え、じゃあ松陰先生の親戚の方なのですか?」
「ええ、そうなんですよ。」
俺たちが尊敬し、師と呼ぶ吉田松陰先生の後ろで松陰先生の
背に先ほどの、玲という少女が隠れている。
あの後、晋作が講義室へと押し込むと松陰先生が
ぱあ、と顔に笑顔を浮かばせ玲を嬉しそうに呼び寄せ、抱きしめた。
首を傾けた俺たちに、松陰先生はニコリと微笑み玲の紹介を始めたのだ。
松陰先生の親戚の方だとは思わず、軽く謝罪を告げると玲はひゅっと顔を隠していた。
こら玲、失礼だろう?と優しく諫められた玲は、ぎゅうと松陰先生に抱きつく。
「仕方無いですねえ・・・。
ああ、二人とも。玲を少しの間だけ預かることになったのですけど
もしも暇があったら、どうか遊んであげて下さい。」
「はい。」
崇拝している師からのお願いとも言える頼みに
否と答えれるわけがなく、俺も晋作も頷くと松陰先生から
ありがとう、という言葉を賜った。
アウラと玲は京の都に着いてから、数日がもう経過していた。
アウラのそれなりに出来ていた日本語も最近、野菜などを売る
市場や、見せ棚で売られている食べ物や物を値切れるくらいになってきた。
京言葉に少しだけ四苦八苦していたアウラだったが、
躓いたのは最初だけで、あとは乾いた地が水を吸い込むように
自分のものへとしていった為に、今日からアウラの一人行動に許可が下りたのだ。
帯紐できつく縛り、帯を締めてき、結んだ形を整えてから
結び目を背中へと回し、玲に確認して貰う。
そして、トランプ一式をきちんと確認してから
下駄へと足を通し長屋の引き戸を開けた。
小店が集まってる道で、あっちに行ったりこっちに行ったりして
目新しい京独特の髪飾りや、老舗の飴や砂糖細工を眺めたり、
少し足を伸ばして神社や、呉服屋にアウラは足を運んだ。
真っ直ぐな道が交差しており、碁盤の目のような都だと
玲は教えてくれたが、簡単にいうなればこれはチェスの盤であるのであろう。
最初の頃は幾度も曲がってみては、元居た所に逆戻りしたりしていたが
道の規則性を理解してからは、道をまたぐ度に何回またいだのかを数えるようにした為、
逆戻りや迷子になることは随分減った。
京の都は道に一条やら二条やらの名前がついていることも幸を制している。
カランコロンと下駄が鳴る音が、静かな通りにきた時に耳に届いた。
だが、下駄の話だけではなく、アウラは人々の会話も聞いてないようで聞いている。
日本語の勉強、という理由もあるが、今回の任務は偵察ならぬ現地調査だ。
さらに言えば、情報ほど己を守る武器はない。
情報は策略や計画を攻略する、そして生きていく上で要となるものである。
今日は何が安い。歌舞伎の何々という女形が素敵。
江戸からやってきた云々先生が塾を開いているらしい。など。
アウラは歩き疲れた身体を休める為に、団子屋の赤い野立て傘の陰の中、
茶を啜りながら通りを行き交う人々をコッソリと眺めていた。
なるべく目立たず、見ていることを悟らせず。
はむ、と口に入れた甘い団子を咀嚼してふとクレインに想いを馳せた。
こういう甘さはクレインは好きなのかねぇ・・・。
甘いのだが、甘ったるくない。何ていうんだろう、さっぱりした甘さ?
クレインに想いを馳せていたアウラだが、団子屋に入った男女の会話に、
京の都を散策していると時折入ってくる単語が耳に入ってきて、
脳内のクレインを蹴り出し、聞き耳を立てた。
「なんや、また親父さまが壬生狼のことをぼやいとるんか?」
「ああ!いねって言おいやしたい。」
「ははっ、流石に言えへんやけどなあ。・・・また人を斬ったゆう噂もあるさかい。」
「三度の飯よりも人を斬るのが好きゆう噂はホンマやろうか。」
「ほうかもなあ・・・。」
男がそこで頷いた気配がした後、以降は全く別の話になり、アウラは集中をするのを止める。
そして、団子の串を皿に置いて茶をもう一度啜った。
剣客集団、邪魔者、田舎侍、浅黄裏、帰れあほう、等々に追加して
人斬りが好きなサディスト。
随分な風評を賜っていることだねぇ。とアウラは湯飲みから口を離した。
(みぶろ、って一体何なんだろうねぇ。)