二階の一番奥にある部屋の前で歩みを止めると、
風に流れて漂う嗅ぎなれた臭いがさらに鼻をつく。
躊躇もなくジャックが扉をあけ、
中の光景を見たキュンメルは眉をしかめざるを得なかった。
赤く染まったシーツから出ている腕から指先を伝って、
未だに滴り落ちる血で、地にあった血溜りが飛沫をあげながら広がっていく。
キュンメルにとって血など日常茶飯事だが、
あまりに濃厚な血の臭いに思わず鼻と口を手で覆ってから、
血の臭いが充満する部屋に足を踏み入れた。
締め切った窓に眼を向けると、血飛沫がそこにも散っている。
血溜りを踏まないように発生源の枕元に立ち、ジャックに視線を送ってから
じわりと血を吸い重くなっているシーツに手を伸ばし、捲った。
「・・・ッ!!」
キュンメルのシーツを握る手から力が抜け、
べしゃりと音を立てて地に落ちた。
ベットにいたのは眼を見開いて絶命していた女であった。
死体などは見慣れたが、この女のそれは今まで見た中でも奇異である。
切り裂かれた服から覗く、いくつもの刺し穴から、どぷりと血が溢れ出た。
ここまでなら殺人事件の中でもあり得ることだが、
この女の下半身が切り開かれているのだ。
次々と溢れ出る血を、切り取られたことによって出来た窪みが受け止めて、
小さく血が水面のように揺れた。
「その女がエマ・エリザベス・スミス。
オレはコイツに用事があった。」
扉にもたれ掛かっていたジャックが
いつの間にかキュンメルの横に並んで淡々と話し出した。
「ホワイトチャペルやテムズ川周辺で
売春婦を狙うイカレた切り裂き野郎が
女を殺しまくって臓器を盗ってんのは知ってんだろ?
切り裂きに殺られかけたが、生き延びた女がコイツだ。」
「・・・結局、死んじまったっすけどね。」
キュンメルは落ちたシーツを拾い上げてエマを隠すようにかけてから神妙に返答をした。
まるで皮肉のように感じられる言葉だが、
ジャックは何の反応も見せなかった。
「この女が生きようが死にまいがオレには関係ないが、
オレに会う前に殺されるたあ間が悪い女だ。」
「どういうことっすか。
寧ろジャックは一体何の用事があったんすか。」
「この女が切り裂きについて証言した。」
「?」
「自分は三人のギャングに襲われたってな。」
ここでついにキュンメルは悟った。
そう、つまりは。
「ジャック・ザ・リッパーが俺たちコーサ・ノストラの中に
いるかもしれないってことっすか。」
「断定は出来ないが、な。」
ったく、オレの力が及ぶこの病院にわざわざ移転させたっつうのによ。
腕を組みながら悪態を吐くジャックにキュンメルは軽く疑問が沸いた。
「ジャック・ザ・リッパーが俺たちコーサ・ノストラ中に
いるかもしれないのは分かったっすけど、
わざわざジャックが出る必要があるんすか?」
「掟の遵守の為、それは確かにある。
だがオレが最も許せねえのは、」
「許せねえのは?」
「切り裂き野郎とオレの名が被ってるってことだ!!」
ふん、と胸を張りながら言い切ったジャックは身を翻す。
きょとんとした顔を思わずしてしまったキュンメルは
シーツの膨らみと遠くなるジャックを交互に見てから声を出した。
「この女どうするんすか?」
「オレには関係の無い女だ。」
そういってから、部屋をジャックは今度こそ出て行った。
キュンメルもジャックの後を追うために扉の方に小走りに近づき、
最後にもう一度だけ鮮紅色に彩られた部屋を振り返った。
手袋に染みついた血を拭い取ろうとするように
キュンメルは何度も指をこすりあわせる。
布に染み付いた血を洗い流す難しさを
キュンメルはその身体をもって経験しているが、
血に良い思いを持っていないのは確かである。
血というものはどうにかして拭い去ろうとしても
忘れることは許さないと断罪の声をあげているかのようにこびりついてとれないものだ。
昔から血というものは不老不死を連想させる鍵であった。
例を出すとすると、昔、とある国の后が美しさを保つ為に、
村の若い娘達を浚い、拷問にかけ、滴り落ちる血を飲み、
その身体を食したという話さえ残っている。
さらに歴史的な絵画にも見られるように、
広場などでのギロチンによる死刑などの周囲になぜ人々が集まるのか考えたことはあるだろうか。
それは、死刑を行う際にでる血を求める為である。
死刑執行人はその死刑囚の血を集めては、民衆に売り、民衆はこぞってその血を買い求めた。
もっとも高値で売買されたのは処女の血であった。
血を毛嫌いするのは現在では普通であるが、
19世紀ではそのような思想はまだ発達していなかった。
この手袋はもうおしまいだ。
キュンメルは頭の端でそう考えに辿り着いた。
「ジャック―、この後どうするんすかー?
ジャック・ザ・リッパーらしき奴も見失ったっすし。」
「ハッ、オレが何の対策もしてないと思ってんのか凡愚が。」
「俺、まだ帰れないんすね・・・。」
睡眠を欲していた本能も、さっきの惨状を見て神経がびんびんに興奮している。
キュンメルは軽く口を尖らせて、手袋を外套のポケットにしまいこんだ。
「ジャック・ザ・リッパーはヤード達が
どうにかするんじゃないかと俺は思うんすけど。」
「切り裂きがもしもオレ達の中にいた場合、
制裁を下すのは奴ら犬の役目じゃねえ。
―――オレ達の役目だ。
それよりもキュンメルちゃんよ。空を見てろ。」
ジャックがそういうとキュンメルはジャックがしているように、
夜空へと視線を向けた。
「ある意味信頼はできないが頼りになる奴からの合図がくる筈だ。」
ジャックはニヤリと不敵に笑った。
星のない夜、アウラは屋根の上で寝転がりながら、月を眺めていた。
ほうと、息をつくと、吐息が宙に消えていく。
身を起こし、首にまいたマフラーに顔をうずめた。
すると、誰かの足音に気がつき、屋根の上から、下の様子をのぞき見ると
フードをかぶった者が近くの家に入っていった所だった。
「遅くまでご苦労様だねぇ。」