イーストエンドから離れた区画にあった病院の前にキュンメルは来ていた。
街灯から零れる柔らかな光が足下を仄かに照らした。
突如吹いた風に包まれてぶるりと身体を竦ませると、
白い吐息がふわりと空気に溶けて消えていった。
ロンドンの春の気温はだいたい5度〜10度である。
「病院で待ち合わせとはジャックの嗜好に疑問を持つっすよ俺。」
病院の階段を上がり扉に手をかけるが、施錠してあるようで開かない。
口をへの字にしてジャックを振り返った。
「開いてないっすよ。」
「誰がそこから入るだなんて言った。」
「・・・・。いや、確かに言ってないっすけど。」
「ハッ!少しは頭を使え凡暗が。」
ジャックは外套を翻しながら病院の裏側へと足を進めて行った。
鼻でせせら笑われ、置いてきぼりにされたキュンメルはひくりと口の端を引き攣らせ
八つ当たりをするように大きな音をたてながら階段を下りていった。
ジャックの後を追う為に病院の角を曲がると、向かい側から来た人とすれ違った。
ようやく裏側まで回ると、裏口の扉から微かに漏れ出す光にキュンメルの影が揺らめいた。
手袋越しにもハッキリと分かる冷たさを感じながらも、扉を引き開けると
病院独自の臭いが鼻を擽る。
はずだった。
突如走った痛みに身体をくの字にしてぶつかってきた人を、
涙を浮かべながら睨み付けようと顔をあげると、
先に進んでいた筈のジャックがいた。
肩をきらしている自分の上司に何事かと口を開けた瞬間
怒声を浴びせかけられ、思わず眼を見開いた。
「誰かとすれ違わなかったか!?」
「え、いや?・・・・・あ。」
キュンメルはジャックを追いかけた先で一人とすれ違ったことを思い出した。
だが、それが一体何だというのだ。
「そういえば、さっきそこですれ違ったっすけど?」
キュンメルが後ろを指さすとジャックはそちらに視線を向けながら、
大きく舌打ちをして、キュンメルの横を風のようにすり抜けて行く。
「追いかけるぞ!!」
「はあ!?一体何があったんすか?」
疾走するジャックにキュンメルが反射神経宜しく振り返って足を並べた。
煉瓦を蹴る靴音と外套がバサバサと音を立てる音がロンドンの夜に響く。
病院前の大通りに出て左右を顧みるが、
彼ら二人は人影を見つけることができなかった。
キュンメルは頬をかきながら先ほどからの質問をもう一度投げかけると、
ジャックは機嫌が悪そうに身を翻し、病院にもう一度足を踏み入れた。
壁にかけられた篝火を頼りにしながら、
足を踏み出すと廊下や階段が小さく悲鳴をあげる。
2階に続く階段の途中でふとキュンメルは足を止めた。
気のせいかと思ったが、やはり気のせいではない。
微かに鼻をつく鉄の香り。
ジャックは口元に歪んだ笑みを浮かべ異変に気がついたキュンメルを見下ろした。
アンダーボスがああいう風に笑ってるときはろくなことがないんすよね。
うげ、とした顔をしながらキュンメルが心の中で呟き、
進めたくない足を叱咤して動かした。